橋本治「日本の行く道 (集英社新書 423C)」

くねくねと強靭な思考を繰り広げる著者の新書新刊。ちょっと上段に構えたタイトルが、大丈夫だろうかと思わせるが、そこはいつもの橋本治節で楽しませてくれる。本当に本人がどう思っているかは推測でしかないが、この人は本気で「日本の行く道」を心配しているというよりは、そういう題材について自分で考え、その経過を本にしたいだけなのかなとふと思う。だからこの本も、真剣に「日本はどうなるのだ?
」「その答えを与えてくれるのか?」などと考えて読んではいけない。彼の思考の過程を追っていく楽しさを味わう本である。
さて、「日本はおかしい」という問題を語るのに、どういったテーマから話をはじめるべきかはとても難しいが、著者はまず「子どものいじめ、自殺」についてその原因を考察していくことからはじめる。その結果、行き場のない社会のありよう、思いやりのなさが原因ではないかというところにたどり着く(2章まで)。大人と子どもの境目がなくなって、それはあなたの自主判断ですよ、というプレッシャーにさらされ続けることが社会から余裕をなくしているのだ、と著者は述べる。子どもの部分を抱えたまま社会人になった人が社会を動かしている。それがなおさら子どもにプレッシャーを与えている。
こう書いてしまうとあまりにも単純に見えるが、この結論に至るくねくねぶりは他人の追随を許さない。さらに、部分部分での言葉へのこだわり、突っ込みは実に興味深い。たとえば、「自立」という言葉について述べるあたり。子どもの自立、障害者の自立、さまざまな場面で使われるこの言葉の無責任ぶり、へんてこりんぶりを指摘する著者の意見は面白い。

「自立」という言葉には、「自立を口にした途端、自分の自立は実現されたと思い込んでしまう」という錯覚が、その初めから隠されていたんだと、私は思っています。(p113)

今の日本社会の救いのなさは、こうした「錯覚による自立」が社会を占拠した結果だろうと思います。「自分にとって自立というのはどういうことなのか?」を考えるのがけっこう面倒臭いというのは、「その自立した自分と他人との関係はどうなるのか?」という面倒な問題が控えているからです。(p118)

すでに言われていることなのかもしれないが、実にわかりやすい言葉で、「自立」という言葉の使われ方の変なところをうまく表現してくれている。自立というどこかウツロな言葉の裏にはこういう錯覚がある、というのはもっともに思える。
この人の意見の裏にはいつも、「考えることを面倒臭がるのはどうなのよ」ということがある。錯覚してそれで終わりではなく、常に面倒なことを考えていかねばならないのが人生なのよ、というスタンスである。説教じみた言い方はしないが、常に著者の本から感じ取られるのはそういうことである。占い師やオーラに人生をゆだねるのではなく、著者の本を読んで納得だけするのでもなく、自分で考えることを面倒がらないこと。これに同意できる人はこの人の本を読んでその面白さを感じ取れるはずである。
ではどうすればいいのか?を述べるのが第3章。ここは著者の真骨頂であり、著者いわく

私の話は、一貫して「くだらないのに具体性がある、具体性があるのにくだらない」という、不思議なバランスの取り方をしています。(p131)

というくだらなくも具体的な例と解決策が示される。内容は読んでもらうとして、現実的にはどうなのよ、という突っ込みを許さない独創性で、気づけば、最初に提示された問題とは似ても似つかないところに読者は連れて行かれる。そんな中でも、『日本は勝者だったのだから、敗者のことを考えるべきだった』という、言われてみれば納得の名言が飛び出し楽しませてくれる。
たどりつく結論はまったくとっぴなものではない。しかし、著者の場合は、「誰の意見の押し売りでもなく、自分でたどり着いた結論」なのだなということが疑いなく感じ取れるのがすごいところ。そしてそれが許されてしまうのもこの人ならでは。
タイトルに惑わされてはいけない。解決策は何も示されない。けっきょくわからないのである。でもそれでいいのである。自分で考えること、あたまをくねくねさせてみることの快楽を味わいたい人のための一冊。