中島義道「「人間嫌い」のルール (PHP新書)」

中島義道さんは、好きでずっと読んでいる一人だ。2、3年前に出た「悪について (岩波新書)」も面白かったが、この本も相変わらずの人生哲学が堪能できる。
そもそも著者の本を初めて読んだのは、高校生くらい、「対話のない社会」や「うるさい日本の私」だったか。世にはびこる偽善に真っ正面から切り込んでいるのを読んで、こんなに自由に物事を考えても良いものなのだと、うぶな自分は実に感銘を受けたのだった。そして同時に、著者の言うように、偽善とかなれ合いのない風通しの良い社会に少しでもなればいいのに、とその考えに共感したものである。
それから十年も経つ。著者の本が出るたびにときどき読み、そして今この本を読んで、再びその「風通しの良い社会」という言葉について考えてみた。そのとき気づいたこと。十年前に自分が想像した「風通しの良い社会」というのは、今の自分が考えているそれよりも、はるかに明るいイメージだった。そのときは、アイデンティティの確立と自立を求める自分の気持ち、つまり周囲の大人や社会への反発だけでなく、周囲とのあつれきも含めて、「もっと自分がしたいことをしたいようにできればいいのに」と感じる気持ち、に著者の求める「風通しの良さ」をだぶらせていたのだ。
今さら感じるのは、著者の求めるのはもっともっとささやかな、死を見つめて見つめていった先にある、ほんの少しの風通しの良さであり、自由なのだなということだ。きっと、その時期にはいくら読んでもわからなかったろうと思う。
人は死ぬ。その当たり前のことが、高校生くらいの自分には、そんなことは知っているとうそぶいてはみてもほとんど実感が伴っていなかった。ここ3、4年ほど、それが身に迫って感じられてくるとともに、著者の求める「風通しの良さ」がいかに切実で、暗さを伴うものかがわかってきたように思う。周囲の人の気持ちまではもちろんわからない。しかし、一般的は、できるだけ死を思うことに無神経でいようとし、死を思い悩みうじうじする人間に対して、嫌なものを見るような違和感を覚えるのが普通の人々であるのだなということが少しずつ感じられてくると、著者の求める生き方が昔より切迫した、とてつもない暗さを伴ったものとして身に迫ってくるのである。
しかし著者とて、この本で興味深くも書かれているように、『人間嫌い』を実践し、『人生を半分降りた』のはそれなりに自分の身を固め、自分だけでできる仕事を見つけてからなのだ。自分の仕事も一人でできないうちから、それを求めてしまうのはなんたることだろう。それでは生きていけないではないか。
著者は、そのような人間に対して、少しづつでいいのだ、少しづつ理解を得て風通しの良い人間関係を築いていけばいいのだと語る。干渉をなるべくしないこと、自分のわがままを許してくれさえすれば、互いに他人には寛容であること。死を見つめつつわがままに生きること。そういう、半分降りた生き方をするには心構えがいる。すぐにはできなくても、その準備をできるに越したことはない。それができない人が、いくつになっても満足できず嫉妬とぬけがけに狂わされることになるのだ*1
年を取っても世俗的なものにしがみつく人間にはなりたくないなぁという人は一つ、著者の提案に耳を傾けてみるのもいいかもしれない。
そこまで人間嫌いにならなくてもいいな、という人にも面白い本。

*1:そうした老い方の醜さ、日本人の不満足感についてはこの本でも書かれている→海原純子「こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人 (角川oneテーマ21)」 - 千早振る日々