鈴木大拙「禅学入門」

あるきっかけで、禅宗のお坊さんと知り合いになった。
ごく普通のお兄さん(とはいっても4人家族の父)、といった感じなのだけど、姿勢がしゃんとしていて、いつもにこにこしていて、そういうところに禅を学んだ人間のスタイルを垣間見ている。
そういうきっかけで、少し知っておいてもよいかなと手にとったのがこの本。
著者の鈴木大拙は「英語達人列伝―あっぱれ、日本人の英語 (中公新書)」という本でも紹介されている、禅を海外に紹介したことで有名な学者さん。英語の達人としても知られている彼のこの本は、西洋の人々に向けて英語で禅を紹介しようと書いた本を日本語に直したもの。
日本人が先に英語で書いて、後で日本語に直すというところがまたすごいのだが、それゆえか、この本は日本語なのに英語を読んでいるようにロジカルである。段落のはじめに、段落の意味をほぼ要約したような文がきちっと入っているあたりとか、読み返すのにも意味を取るのにも読みやすい。…などと思ってしまうのは、英語で仕事として文を読むのに慣れてしまったからなのかもしれないが。
例えば緒論では、大乗、小乗という大きな仏教の宗派から語り始め、禅の神秘的と思われるような特質を述べ、しかしそれが非合理的なものではないことを説明していく。その説明の丁寧さが、他の宗派と比較したときに禅ほど日常生活と密接した、東洋人の人生観そのものが現れているものはないのだと結論付けるところに効いている。この、うっとりきてしまうようなロジカルさとそこにこめられた主張の強さ。
むろん禅の本質などに、この本を読んだくらいで達することができようはずはない。しかし、だからといって日々の生活に禅が無関係だったり役に立たなかったりするわけではないのはこの本を読んでも分かる。そのエッセンスがわかることで、きっと、「禅的」に生きられるし、考えることができる。一つの新たな見方を獲得できる。
公案という、いわゆる禅問答というのか、一読意味がわからない禅師の会話もたくさん紹介されていて、読み進むうちに徐々に禅の雰囲気に慣れていくことができるのもまたおもしろい。わかってすっきり、だけがいいわけではない。わかったようなわからないような感じを味わうのもまた、一つの生きる楽しさだろう。