長谷川宏「高校生のための哲学入門 (ちくま新書)」

ヘーゲルの翻訳で有名な在野の哲学者である著者が、タイトルどおり高校生くらいをターゲットにして哲学について語る。哲学入門と銘打ってあるが、難しい哲学の考え方や哲学者などはほとんど出てこない。あくまで、私たちが日ごろ直面する「哲学的な」問題からスタートして、思考を深めていく。
第一章で著者が書いているように、外界とは異なる個としての自分が意識され始めるのが思春期であり、高校生くらいになるとそれを深く考え悩むことも多い。そこで特に悩むのが『個と社会(共同)の関係』であるが、これについては大人になれば自然に解決する問題でもない。歳を経ればまたそれ相応の個があり、自分の含まれる社会があり、その間に葛藤がある。この問題は、生と死や宗教についてなど、いかなる他の哲学的問題についてもつきまとう。
そういう意味ではこの本は、高校生のためのとなってはいるものの、全ての、いまだ考えることをやめない、やめたくない大人に向けたエッセイでもある。著者の押し付けがましくなく、じっくり読者と考えていこうとする文章がいい。いろいろなるほどとじっくり考える箇所もあったのだが、特に死者についての以下の文章が心をうった。

生きている人びとの、より深く精神的に生きようとする努力によって、死者は共同の世界と精神的につながり、共同の世界を精神的にゆたかにするものとなるのだ。
…死者と精神的につながることによって共同の世界が深みのあるゆたかさを獲得しえているとすれば、そのゆたかさは死の悲しさと寂しさをくぐりぬけ、悲しさと寂しさを包み込んではじめて可能となるゆたかさだ。(p144)

死者を生きている世界につながらせるには、生きている人びとがより深く精神的に生きようとする努力をすることだ…なんて魅力的で、しっくりくる考え方だろうか。死に対する感情を悲しさや寂しさだけで埋めてしまうことはない。そこをくぐりぬけようとし、より深く生きようとすることで死者とつながれる。一般的な老いや死についての話から、なぜ死を寂しく思うのかという実感についてなど、著者とゆっくりと思考を重ねていく中で、著者のこうした文章があらわれてくる。この考えは私にとって新たな発見だった。
こういった、ゆっくりと著者と考えながら、自分の考えを確認し、発見していく作業がどの章でもできるのが、この本の楽しさだ。それはまた広く読書の楽しさでもある。個と社会について、人との交流について、老いと死について、遊ぶことについて、芸術や宗教について。どれか一つでも興味のある人はぜひ手にとって見てほしい。
最終章では、在野で哲学を学んでいくことになった著者の思考の変遷が明かされる。他の章と少し色合いの違うこの章こそが、アカデミックなものに対する信頼を抱く私にとってはこの本のハイライトだった。『抽象的・観念的な知を日常の暮らしに近づける(p208)』ことを常に考えてきた著者の、長い時間をかけたからこその、知と思考の力に対する信頼が読んでいる身にひしひしと迫る。