鴻上尚史「俳優になりたいあなたへ (ちくまプリマー新書)」

執筆活動も活発に行っている劇作家の著者が書く、俳優になるための入門書。
中学生高校生といった若い人を読者に想定している「ちくまプリマー新書」の一冊だけあって、俳優を志す高校生に向けて著者が対話調で語りかけるという構成になっている。
テレビに出るか舞台に出るかという違いなど俳優の仕事の説明からはじまり、その後、台本を元に、どのように考えて演じていけばよいのかということについて具体的に語ってくれる。もちろん実際に演じる人のためのアドバイスとなっているのだが、自分では演じることのない読者もこの本を読むことで、テレビで目にする俳優さんやタレントさんの演じ方の上手い下手を自分なりに感じ取れるようになる。
演劇畑でしっかり訓練を積んだ俳優さんと、モデルやお笑いをやっていてたまたま演じることになったタレントさんとの間には、演じ方に差がある(もちろん突然やってもそれなりに上手い人はいるが)。その違いがどのあたりにあるのかがわかるような説明を著者が述べてくれるくだりは面白い。この本では、山道を歩いていると熊が出た、という演技をするのにさてどうするか、ということを例としてあげている。

演技を始めたばかりの人は、とにかく演技をムードでやろうとする傾向があるんだ。(p63)

熊が出たから『死にたくない』っていう大きな気持ちや、抽象的な『逃げたい』という目的を、漠然と演じようとする傾向のことだ。なんとなく悲しいとか、なんとなくつらいとか、なんとなく逃げてるとか、抽象的で漠然とした感情や目的を表そうとすること、それがムードで演じるってことなんだ。ムードで演じると、演技がよくあるパターンの、平凡でつまらないものになってしまう。(p64)

でも、熊から逃げて助かりたいから『あの車のドアを開けたい』っていう具体的な目的は、演技を生き生きと魅力的なものにする。(p64)

つまり著者は、『ムードで演じる』のではなく、『具体的な目的を明確にして演じる』べきだと述べているのであるが、これが実に納得するとともに、思い当たるところのある指摘であった。
だれしも、学芸会やら余興の劇やらで演じることになった経験があるはずだ。そういうとき、先生や指導者が言うのはだいたい「演じる人の気持ちになって」「感じたままに」ということだったろう。それを聞いてやってみても、どこか雲をつかむようで要領を得ない。上手く演じられている気もしない。でも、『具体的な目的を明らかにしてそれを伝えるように演じる』のはとても具体的で演じるのに役に立つアドバイスだ。
こういう視点でドラマや映画を見ると、名前もわからないような渋い俳優さんの上手さの秘密がわかるような気がするから面白い。この本には、他にもそのような具体的なアドバイスとなるほどと思わされる演技論が満載だ。仕事論にも通ずるところがあるので誰が読んでもヒントを得られることと思う。

中盤では実際に俳優になったらどのように仕事をしていくのか、について書かれる。後半ではどうすれば俳優になれるのか、『いい俳優』になるには何が必要か、について述べられる。
プロのミュージシャンや俳優や小説家になりたいというと「そんな夢みたいなこと」と言われる。こうした仕事は、競争率の高さもあって、バイトをしながら仕事を得ようと先の見えない日々を過ごさねばならない点で共通している。
著者も、俳優とは『失業を前提とした職業(p152)』で、『簡単に諦められるのなら、絶対にトライしちゃいけない(p165)』と説く。低収入でバイトをすることもいとわず、しぶとく自分を高める努力を続けられる、そういう人のみがプロとしてやっていけるのだ。逆に、お金にも不自由しないし、道楽として学生時代からなんとなく続けていました、というだけでは絶対に大成しないのがこうした仕事なのだろう。ただお金が欲しいとか、目立ちたいというだけではない、心の底の動機。それが下積み時代の人間を支える。陽の目を見ない時代に、どれだけの信頼関係を築き自分の力を蓄えられるか。どういった仕事でも必要なことは変わらない。
そうした毎日を幸せだと見る人もいるだろうが、貧乏してまでは…と思う人もいるだろう。どちらが正しいかはわからない。そういった、陰と陽の両面に触れているのがこの本のやさしさだ。
中学生高校生だけに読ませておくにはもったいない一冊。