中川右介「カラヤンとフルトヴェングラー (幻冬舎新書)」

ベルリン・フィルを率い多くのCDを残し「帝王」と呼ばれた指揮者カラヤン。そんな彼を見たのは、中学校の音楽の授業でだった。『アマデウス』を見せてくれた先生の授業で、クラシックの映像を見るといつも出てくる堂々とした白髪の男。しかし、子ども心に威圧感があった彼ももちろん、最初からそのような位置に立っていたわけではなかった。比類なき才能をもったカラヤンが巨匠と呼ばれるに至るには、彼が若きときに既に巨匠であったある人物を乗り越えていく必要があった…。
その巨匠こそがナチス時代にベルリン・フィルの首席指揮者であったフルトヴェングラーであった。既に地位も名声もあるフルトヴェングラーはしかし、才能はあるが歳も大きく離れ、まだなにものでもないカラヤンに嫉妬し彼の出世を阻もうとする。才能あるものは才能あるものを知るとはこのことだろうか、彼は死の間際まで指揮者としてカラヤンに超えられまいとしていた。
両者は、誰もが抗えないヒトラーという権力が存在したナチス時代には権力を利用して駆け引きし、戦後はナチスと関係が薄かったと主張しあう。時代は変われど、二人の音楽における成功、名を後世へ残すことへの情熱は変わらない。二人の成し遂げたかったこと、そのためにした行動が互いの関係を含めて細かく描かれていて、新書にしては長いが飽きさせず読ませる面白さがある。
また、ナチス時代になぜ二人が亡命せずにドイツに残る道を選んだか、そして戦後、亡命したものと比較してどのように見られることとなったか、というあたりの運命が面白い。と同時に、自分の立場を危うくしないため二人にとってはそうした(結果としてナチスに協力したと見られてしまうような)行動がある意味必然だったのかもしれないと思うと、権力を前にした人間の良心の弱さを感じてしまう。
指揮者とオーケストラの関係とか、どういうオーケストラで振るのが指揮者にとってよいか、など、指揮者を中心としたクラシックの世界が、別な角度からわかるのも興味深い。『のだめ』もこの本を読むとまた面白さが増すかもしれない。