離れる人、居続ける人

いかなる業界で働いている人でも、自分の働いている業界への不満というものがあるだろう。それは待遇であったり、構造的なものであったり、倫理的なものであったりさまざまであろうと思う。そしてその不満は、マンガ家とか音楽家とかスポーツ選手とか科学者とか演劇人とか、そのことが好きな人間ほど、その仕事をやめたくないゆえに悩みを深くさせる。ここでは、「好きでそのことをやっている」人がその業界事態に持つ不満について考える。それぞれ、自分が一番身近な分野のことを想像して読んでもらえばいい。
その問題の解決にもさまざまなアクションがあるだろうが、だいたいの場合は、業界全体への不満は問題が大きくて一人で太刀打ちできるものではない。さらに若い人間にとって、自分より上にいる既得権益を持つ人間の多さもまた、事態の改善を絶望させる一つの原因である。
さてどうするか、といったときにアクションは二つある。

  1. 業界の外に出て、好きなことを少しずらした形で、自分のできることを模索する
  2. ひとまず問題を解決するのをあきらめ、苦しくてもそのまま好きなことをやる

もちろん、後者でいつか成功するならそれに越したことはない。しかし、その保証がないとみんな知っているからこそ、お金も欲しいし好きなことがしたいからこそ、前者のようなアプローチが流行るのは当然だ。どう考えても儲からないし苦しいのにずっと続けてるなんてかっこわるい、という空気すらただよう。
前者のアプローチでうまいこと世を渡っていける人もいるだろう。とても魅力的なことだ。しかし、最近思うのは、そのようにして業界を少し離れて成功し、外から業界の問題の解決を試みようとする人と、後者のように粘って業界にいつづけることに成功した人間との溝のようなものはずっと残っていってしまうのかな、ということである。
ここでの「離れた人間」「居続けた人間」という「くくり」自体が古くさい、と感じられるかもしれないし、実際そんなものはないんだという偉い人もたくさんいるだろう。でも、好きなことをそのまま続けられた人間と、少し離れた人間の間のしこりは思ったより残っていくものかな、と双方の人間を見ていると思う。
前者にすれば、後者のように既にある構造の中で我慢してのし上がっていくのは古くさいし、そうして成功した人間の業界に対する考えなどたいしたものではない、と考えてしまうのも無理はない。後者にすれば、前者のように業界から離れてしまったものになにができるのか、と自分を守る姿勢になってしまうのも無理はない。
前者の、離れて成功した人間が「そんなところ離れたもの勝ちだよ」と煽るのでもなく、後者の居続けて成功した人間が「苦労しないと成功なんてできないよ」と苦労を強いるのでもなく、できないものだろうか。それではどちらも、自分の来た道を否定したくないがゆえに後進に同じ構造上の不満を残してしまうだけだ。
離れる人間は、いつでも戻ってやる、というくらいの業界へのあこがれをもちつづけること。居続ける人間は、いつでも離れられる、という柔軟さと離れた人間へのリスペクトを持つこと。さらには、後進にどちらの道もあるんだよ、ということを公平に話せること、そしてどちらにいくにせよ彼らの成功を心から支援できること。
難しいだろうけど、それぞれの道を行った人間が、こうした自分だけが成功すればいいというのではなく、後に続く人間の成功をその進む道に関わらず支えられるような気持ちを持てればと思う。もちろん、自分の来た道へのこだわりは思った以上に強いものだし、それを否定するような道はできれば肯定したくないものだ。しかし、離れた人、居続ける人がそれぞれ互いに憧れと互いを受け入れられるだけの柔軟性を持っていなければ、後進の人間にとっては不幸なことであることも間違いない。