後藤正治「ラグビー・ロマン―岡仁詩とリベラル水脈 (岩波新書)」

30に達していない僕のラグビーの記憶は、平尾と大八木の神戸製鋼、そして明治の試合をスタンドから見守る老将北島監督の顔から始まっている。思わず買ってしまったこの本は、北島監督でも、並び評される早稲田の大西監督でもなく、平尾と大八木を輩出した同志社を長く指導してきた岡仁詩の評伝である。
そもそも評伝を読むのが好きなのもあるが、副題のリベラルという言葉に惹かれてしまったところもある。アマゾンのレビューにもあったのだが、リベラルという言葉は政治的立ち位置を表す言葉として敬遠してしまう人もいるのかもしれない。しかしこの本の主人公である岡仁詩の考えやエピソードを読んでいくうち、リベラルとはなによりも、人間の生き方のスタイルを表すものなのだな、ということを改めて感じさせられた。個人個人の判断を重んじ、練習の仕方、試合での動きもすべて選手にゆだねる。岡は、あくまで「こういうやりかたもある」と示すのみだ。それは、「こうすれば勝てる」と指導するよりもずっと難しく、忍耐のいることだ。リベラルな生き方をするには、後進の人間を見守り、その自由を尊重できるような心の大きさが必要だ。

ゆだねることに不安は感じなかった。人はしばしば間違いを犯すものである。犯したら改めればいい。それに、そもそも部は部員のものであって部長でも監督のものでもない。失敗を引き受けるのもまた部員たちなのだ、と。
学生を信じるのかどうか、信じられなかったら指導者はやめないといけない―岡は何度かそう口にした。”岡イズム”のエートスはこの言葉に集約されてあるように思えるのである。(p122)

それでは合理的に勝ち方を指導し、言うことを達成させる指導者が作ったチームには勝てない、というのも確かだろう。でもそれはあくまで短期的な話であって、長期的に見たときに、どちらの指導者から巣立った学生がよりよく後代を指導できるか、は逆である気がする。
スポーツであれ学問であれ、企業活動とは異なり元来自由で、個人の発想や主体性があればこそ、人の心をうつものが生み出される。チームの構成員たる個人が気持ちよく動いたときに、そしてそれがチームとしてまとまったときに、できあがるものは強烈な指導力によってまとめられたチームが生み出すものの何倍も魅力的で後世に残るものだろう。この本でエピソードとして出てくる試合は、すべてそうした自由な個人の集団が作り出した奇跡である。
岡の弟子であり、一番影響を受けたと語る平尾もまた、個人で判断できる強い個の集合体が生み出す力こそがこれからの時代に必要とされるのだ、と語っている。スポーツも学問もどんどんシステマティックになっていく中で、「心の自由」をどれだけ保っていけるか。そしてそれを知るものどうしで力を結集させていけるか。そんなことをラグビーを通して思わず考えさせられる、魅力的な評伝。

人は誰もがリーダーである (PHP新書)

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