海原純子「こころの格差社会―ぬけがけと嫉妬の現代日本人 (角川oneテーマ21)」

経済的に潤うものと、貧しいものの差がはっきりとしてくる格差社会
では潤っているものは気持ち的にも余裕があるのか、といえば、第一章に「勝ち組のゆううつ、負け組のいら立ち」とあるように、そうではないのだと著者は述べる。誰しも、テレビに出てくる人や自分の周りの人を見ていれば心当たりがあるだろう。社会的には勝ち組とみなされるような人でも、本人はそう思っていないことが多いのである。
『何となく幸せ感が不足しているような(p10)』気になったり、いつも不満ばかり探そうとしてしまう。まだまだ満足できない、とより大きな成功を求める。これが『ゆううつ』な状態である。
逆に負け組の人はそれなりの生活に充足しているのかといえば、確かにそういう人もいるのかもしれないが、なぜ自分は○○よりも負けているのだ、報われないのだ、と『いら立つ』ことのほうが多いだろう。
結局どちらでも満足できないのは、『手に入れたものにすぐ慣れてしまう(p15)』からだ。誰と比較することもない自分らしさではなく外的条件を追い求めていくことは、得たものに慣れてしまい不安になる空しさと紙一重である。一通り社会での評価を得て、なお名誉やらお金やらを気にする人のなんと多いことか。そしてそうした「勝ち組」はいつまでもどこか不満な気持ちを持って生きていく。そういう大人を見て、社会的に上昇していくことのあほらしさやむなしさを感じてしまっている若者も多いだろう。
ここまではよくきく話でもあり、じゃあどうすればいいんだ、という気持ちにもなる。
この本で面白かったのはここから、こうして外的条件に一喜一憂してしまう社会の裏には、「自分らしさ」というものに対するアレルギーがあるのではないか、と論じていくくだりだ。
「自分らしさ」「好きなことをやる」というと、著者の書いているとおり、うさんくさい、と感じてしまう人のほうが多いのではと思う。しかし、古くさいことばながら、外的条件によらない心の充足感を得るには、結局これしかない…と、著者は「自分らしい人生」の復権を提案する。
結局出てくるのが「自分らしさ」かい、と思うかもしれないが、自分らしさを見つけるにも技術が必要で、バカにはできない。心を自分の内側に向け、外的条件とは別の充足感を得ていく技術は、『メディテーション』、いわうる瞑想、と言われ、日本でも大事にされてきた文化なのである。掃除や皿洗いを一人で淡々としているとき、静かに体操をしているとき…心が静まってくるのを感じることはないだろうか。宗教っぽく聞こえるかもしれないが、自分の内側に心を向けることで得られる気づきがあるし、そこから見出せる新たな充足感の方向があるのである。
すぐには見つからないかもしれないが、具体的には、ある程度の社会的承認を得られたなら、あとは「好きなことをやって」「自分らしさ」を出すことで社会へ貢献できる道をさぐるべし、ということだ。

自分の欲求、願望を実現するとそれが人のためになるという状態に行きつくには、途中で歯を食いしばり社会に適応し、最低限、その中で場を作らねばならない。だがその道の先に、自分らしく心地よく生きることのできる段階があるのなら、途中、歯をくいしばることができるだろう。若者に示さなければならないのは、苦しい道の後に開ける自己実現的人生なのである。(p186)

社会的に成功することも重要だ。しかし、そのあとどのように老いていくか、ということはもっと重要だ。
若造ながら最近思うのは、若いうちに外的条件とは関係のない「自分らしさ」を見出せない人は、社会的に成功したあとになってからそれを見出すことは難しいのではないかということだ。若いうちからある程度老成していくように、老いかたや人生の虚しさなりを感じていけるように感受性を掘り起こしていないと、一通り成功してから、じゃあ外的条件と関係ない自分らしさをさぐろう、と思っても急にはできないだろう。
ただ、それをあまりにも早く体得してしまうと、今度はがむしゃらに働いたりするのがあほらしくなってくる恐れもある。
がつがつ生きようとする意欲と、どこかで「こんなもんだもんね」と感じられる覚めた気分。これらをうまいこと飼いならしていくのが、最後まで幸せに歳をとっていくコツなのかもしれない。