岩田健太郎「1秒もムダに生きない 時間の上手な使い方 (光文社新書 525)」

前著「予防接種は「効く」のか?」が非常に面白かった著者の時間管理術、と書くと著者は意図が伝わっていないとお怒りになるかもしれない。そういう本であるような体裁をしていながら、まったく違った側面から時間の使いかたについて考える一冊。本は著者で買うと思っているが、今回もまさにその通り。著者の、少し毒の入った、スパッと切れるスマートさは、この本で時間について語る際にも存分に発揮されている。

著者の時間の使い方について読んで思ったのは、あ、自分も同じスタンスだ、ということだ。ボトルネックのない仕事をいくつか並べておき、自分の気の乗っているものをやっていく、というやりかたは、自分では時間術とはとても思えないようなシロものだったが、それが一番効率がいいのだ、と説得力を持って語られると、肯定された感じがして気持ちがいい。
しかしこれは案外難しいことで…自分の気持ちを見つめることができる安定した心持ちが少し揺らぐと成立しづらくなる。

時間の上手な使い方は、他者のまなざしに規定されるのではなく、自分の気持ちを基盤にして、今ここにいる自分の気持ちを基盤にして意思決定をしていく態度と同義です。ふわふわとした自分探しや自己実現を希求しているとき、その「空想している」時間はまさに、「無駄に使われている時間」なのです。(p94-95)

この、他者のまなざし、というところがポイントで、どうしても我々にはそれが入ってきてしまい、自分の気持ちを基盤にしようとするときに邪魔になる。自分にとって必要か、そうでないかをきっちり考えていくのはとても意思のいることだ。
では、こういう人間は他人のことを考えていないのかといえばそうではない。意味のない、面倒くさい仕事を意地でも消そうと周囲の人に掛け合う態度が表裏一体としてある(p101-102)。その際に、せっかく誰かが作った仕事なのだろうし、とか誰々にとっては大事なのだろうし…と考えてはいけない。単純に、ただ単純に、誰のためになっているか、役に立っているか、時間を奪っていないか、を考えればいいのだ。
このスタンスで、会議、評価、報告書、マスコミを視聴すること…についてもズバズバと切っていく。いるいる、自分の存在と頭の良さだけを示すためだけに面倒な仕事を増やし他人の時間を奪う人。それは真の意味で頭がいいわけではない。単純な頭で、他人にどう思われてもいい、と動くからこそ仕事は有効に先に進んでいくし、時間をうまくつかうことができる。

こう言うことを言ってしまうと元も子もない人がいっぱいいるから(世の中はある意味「他人に見られることが大事」な無駄な仕事に満ちているから)、こういう本を書く人はいなかった。この本とて、時間をどのように慈しむべきか、時間の有限性を受け入れ、挫折や停滞といった無駄な時間を受け入れること、を書いた2章3章も含めて、その意図を大体理解できる人がどれだけいるだろうか。
時間術の本としては決して売れないだろうが、個人的には、こういう考え方を持った人と一緒に仕事をしたい、こういう人に組織やものごとの舵取りをしていただきたいと心から感じる。

3章の、挫折、停滞している人間に向けたセリフは、現在の自分の気持ちともあいまって、実に心にしみる。時間を大事にすることは、自分だけでなく、他人の停滞も待ち、慈しめることなのだろう。

挫折の時間も、停滞の時間も、他者のまなざしに規定されず、自らの意思でそれを甘受する覚悟を決めれば、それは無駄な時間ではありません。「私こそが私の魂の指揮官」である限りは。そして他者は、そのような「私の魂の指揮官」である、停滞しているように見える他者を、罵ったり嗤ったりする権利を持たないのです。(p210)

停滞や挫折を許容し、待つこと。
時間と居場所が停滞しているように見える人に与えられていること。
そういうものを、未来の時間の不確定さを目の前にして、提供し続けたいなあ、と思うのです。(p227)