飯田道子「ナチスと映画―ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか (中公新書)」

これはおもしろい。目のつけどころも、内容も、かなりのツボだった。
開発されたばかりの映画というメディアを最大限に利用して、プロパガンダ戦略を展開したヒトラーナチス。逆に戦後は、ナチスとその「悪行」を対象にした映画が数多く生み出され、時代とともにその描かれ方は変わりながらも生き続けている。
この二つの側面について、それぞれの時代に代表的な映画の内容が紹介されつつ、二部構成で語られる。映画の一シーンなどの写真も随所にちりばめられていて、見たことのない映画もイメージしやすい。
前半の主役は、ナチスプロパガンダ戦略の立役者であるゲッペルスと、その映画管理政策について。とはいっても、必ずしも全ての映画がプロパガンダ一色のつまらないものだったか、といえば、『ナチ時代の劇映画の中で、純粋なプロパガンダ映画として認められる作品の割合は、せいぜい五分の一くらいである。(p105)』と書かれているように少し違ったようだ。この本で取り上げられるのはプロパガンダとしての映画がメインではあるが、映画を管理していたゲッペルスが、映画の娯楽としての、見るものを楽しませる側面もまた必要だと思っていたことは興味深い。一方で、アメリカやイギリスの映画に張り合おうとして、戦争自体が劣勢のなか、大金を投じて政治色の強い娯楽映画を作ろうとする何とも言えないまじめさと滑稽さ。そういう映画を撮ろうとして、政治色の強いものを作るように利用された映画監督のことを考えると、その時代に生きていかねばならなかったことの葛藤は、想像するに余りある。
前半でもう一つ大きく取り上げられているのは、ナチスの党大会やベルリンオリンピックの映像を記録映画として残すことに心血を注いだ女性映画監督、リーフェンシュタール。映画を統括するゲッペルスと話し合い、建築家のシュペーアに協力してもらい、自ら編集を全てこなすなど独自の美的視点から二大イベントを映画として完成させた彼女。詳しく書かれているように、細部にまでこだわる一方で、さまざまな新機軸を打ち出し、自らの美意識にのっとって作った映画が、まぎれもないプロパガンダ映画として見られてしまう皮肉。

リーフェンシュタール自身は、ナチ党員でもなかったし、ナチスの思想には共鳴していなかったと生涯主張していた。映画を作る過程で彼女が重視したのは、彼女なりの美意識だった。だが、その美意識は、ナチスの思惑と重なってしまっていた。(p84)

その後の記録映画にも間違いなく影響を与えただろうこの映画監督の話は、はじめて知ったことが不思議なくらいのインパクトがあって実に面白かった。著者も、プロパガンダの悪だとか、そういう部分を強調して是非を語るのではなく、彼女の映画の新しさやどのようにそれがナチスを浮き立たせたかについてを淡々と述べていて、そこがまたよかった。

第二部は、「チャップリンの独裁者」からはじまり、「ショアー」や「シンドラーのリスト」に至までの、ナチスヒトラーを描く映画の移り変わりについて。ナチスドイツを悪の定番として描く戦後しばらくのアメリカ映画、ナチスの裏に内包されている、人をひきつける「美の魅力」を描こうとした映画の数々、そしてホロコーストをどのように描くべきかという問いを投げかける映画。さらには、「ヒトラー〜最期の12日間〜」(この映画は、家族や女性にはやさしい一方で傲慢で神経質な面を見せるそのヒトラーの描き方といい、防空壕内での人間模様といい、評判通り実に面白かった)などに見られる、近年の映画の新たなナチスヒトラー像について。

ナチスを悪役として断罪するのではなく、なぜそれが人をひきつける魅力を持っていたのか、また戦後それを映画として消費していく我々の意識とは、ということについて考えさせてくれる納得の一冊。きちんと巻末に出てきた映画のリストも載っていて、映画案内としてもいい。