石川拓治「奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則の記録」

ひとつのものに狂えば、いつか答えに巡り合う。(p23)

不可能と考えられてきたリンゴの無農薬栽培に挑んだ一人の男。その奇跡ともいえる成功に至るまでには、地を這うような生活と周囲の冷たい目があった。

面白い人がいるものだ。前歯の抜けた笑顔がかわいらしい木村さんだが、うまく行かないときには、自分で死ぬことまで考えるほど追いつめられていたことが書かれている。
無農薬の方が甘くておいしい、というようなことはあらかじめわかっていたわけではない。また、農薬はすべてよくない、というのは極端な議論で、素直には受け取れないところがある。実際、この本でも何度となく、青森のリンゴ栽培に農薬が果たした役割の大きさについて書いている。
そう思うと、そこまでして無農薬にしなくてもいいだろうとも感じてしまうが、やはり、「誰もやったことがないことをやる」ということが木村さんにとって重要だったのだろう。
もはやこれは、世界で初めてのことを追い求める、研究者に近い信念だ。お金に執着しないところ、根っからの勉強家で書物をひたすらひもとくところ、自分で使うための機械をいじるのが大好きなところなどもそう感じさせる。

しかし、木村さんは『私は百姓だからな』『…百姓は百の仕事という意味なんだよ。百の仕事に通じていなければ、百姓は務まらないのさ(p183)』とも語る。生きた自然と向き合い、自然の中の生物のつながりを体験から感じ取る。分析的に物事を見る学者ではなく、全体を把握するのが百姓なのだと。
おそらく、誰もやっていないことをやって、それを重要だと思ってもらうには、両方の要素がいるのだろう。分析的にものを見ていくこと、ものの裏にある全体のつながりを把握すること。
学者でも、分析的にだけものを見て細かいことについてだけ研究していては、その仕事の重要さは認めてもらえない。大きなつながりのなかに、自分の細かい仕事を位置づけられないといけないのだ。しかし、その「大きなつながり」が自然というとらえどころのないものであり、収穫されるものにダイレクトにつながってくる意味で、農業は実に奥が深い。

この「奇跡のリンゴ」、農薬を使ったものに比べると小ぶりで見かけも劣るようだ。しかし、その魅力ある味に惹かれて買ってくれる人、料理に使ってくれる人がいて、木村さんの苦闘が報われていることはとてもよかった。
木村さんの場合はリンゴの木だが、あるものと長くつきあうからこそわかることがある。冒頭の引用の「狂う」は、すごく持続性で、静かな、かつ強い執着心を伴う「狂い」なのだ。