島朗「島研ノート 心の鍛え方」

島研ノート 心の鍛え方
将棋の本であるが、一切棋譜はない。タイトルどおり、何かを極めるためにどういった心の持ちようが必要なのかを一般の人々に語る、エッセイである。

著者は、将棋棋士である。一般的な認知度は高くないかもしれないが、ぼくが将棋にはまっていた小学生のころ、20代、ばりばりの若手として、初代竜王(タイトルの名前。20年ほど前にできた、比較的新しい棋戦である)にも輝いたトップ棋士である。バリっとしたブランドスーツを着こなし、都会派としてならした…というとイメージがわくだろうか。
そんな著者が、50代を迎え、力が落ちていく中で、どのように将棋を向かいあっているのか。当時と今でどう考え方が変わってきているのか。自らの昔の若さゆえの突っ走りっぷりを語り、若手に暖かい目を注ぐ著者は、今やがっしりとした中堅どころとして、将棋の世界の未来をしっかり見据えている。もちろん、著者がバリバリの20代だった頃にどのようなことを考えておられたかは、自分が若いこともあってまったく存じ上げなかった。彼が、ずっとトップに立てる実力があるわけではないと思っていたことなどは、もちろんわからない。しかし、著者よりずいぶん若輩の自分が読んでみても、そうした若い時代を経て一人の人間が成熟していき、次の世代にいかに自分が得てきたものを返すか、というように後進のことを深く考えるようになる過程を目の当たりにして、自分に置き換えてなるほど、と思ったり、同じようなことを最近考えるなぁ、などと納得するところが多かった。
著者はまた、タイトルにもある、本人の名前を付した「島研」という将棋の研究会の主宰者であった。これについては本書内でも何回も出てくるので詳細は省くが、誰でも知っている羽生善治3冠、そして森内俊之名人、佐藤康光という将棋界の3大ビックネームが10代でデビューするあたりから著者と4人ではじまり、この3人を生んだことでその名が広く知られることとなった。逆に言えば、彼らと一緒にいれば、自分の才能がどの程度のものか、に否応なく直面させられるはずで、そうした思い(「棋士としての何か決定的な部分をあきらめさせられた」(p193))も、この本には書いてある。将棋こそ全ての棋士が「生涯選手」だと思っていたが、それだけに突き詰めてできる人はこの世界でもそんなに多くないようだ、みんなどこかで自分の能力を絞って自分のできること(本とか普及とかメディアとか…将棋の才能にもいろいろある)をやっていくのだ、というのがよくわかる。どんな分野でも、そんなものなのかもしれない。
彼らと出会い、著者が何を考えたか。彼らにどのように接していたか。それについてがまとまった形で詳細に語られる本書は、1つの現代将棋史の重要な面を間違いなく文章として残している。

著者が書く通り、若いだけで勝てる時期がある。どんな業界でも同じだろうが、若者ならではの勢い、最新の知識、体力でそれなりの業績を上げることは、誰にでもできることではないにせよ、よくあることだ。それを、40代(まさに、羽生さんをはじめとする3人はこの年代だ)になってもなお、維持できるか、は難しい。そういうことへのヒントもこの本にはたくさんある。長く一線でいられるための考え方として、特に納得できて面白いと思った1つは、「理解できないこと・答えのでないことを考え続ける姿勢」が、効率的になにかをなすこととは対極にありながらも、長い目で見ると重要なのではないかと指摘されている部分だ(p152)。これは、引き続き書かれる『待つ力』にもつながってくる。すぐに答えが出ることばかりを求めるのではなく、脳に負荷をかけて、それが熟成されるのを待つ期間をもつこと。他人からの評価、自分の実力…ともに、すぐに良い方向に変わることは、なくはないにせよ、多くはない。自分の他人からの評価も長期的なものならば、根本的な実力と言うのも長期的なものである。じっくりと待つ姿勢をもちながら、長期的に自分を変えていく努力がいるだろうという主張は、羽生・森内・佐藤の「根本まで考える」長期的な視点を示すエピソードとともに、非常に深く心にのこる。

著者が語りかけているのは若い将棋棋士だけでなく、ますます世知辛い世で戦う若者全般だと感じられる。彼らに、若さだけで戦うのではなく、長期的なもののみかたをすることの重要性を説き、体力・礼儀などの大事さをさらっと述べ、同時に、生涯純粋に何かに打ち込むことの尊さを語る。「もって生まれた」人間を3人も、それほどまでに近くで見てしまった人にしか語れない重みを持つ言葉が、ここにある。