羽生善治・白石康次郎「勝負師と冒険家―常識にとらわれない「問題解決」のヒント」

「勝負師」こと、トップ棋士の羽生さんと、「冒険家」こと、海洋冒険家・ヨット乗りの白石さんの対談。とある講演会で出会った全く違うバックグラウンドを持つふたりの、意気投合して語り合う姿が目に浮かぶ。
常に何かにこだわらず、偏らず、正直に、自分が想像できない自分を目指し続け、新しいものを生み出し続ける羽生さん。その姿勢に、年上の白石さんが憧れ、自分の生き方に生かそうとしているのがよくわかる。一方羽生さんは、白石さんのことを、全く違う分野から、自分の普段から考えていることを引き出してくれるいい対話の相手として、実に楽しそうに話したり聞いたりしているように読める。白石さんがあとがきで「羽生さんと肉体系(体育会系というニュアンスだろう)の人の対談ははじめてではないか」と言っているように、羽生さんの普段話す相手とはだいぶ毛色が違うのだろうし、そこが話をより深くしていると感じた。
話される内容は、例えば「カン」や「運」についてであったり、経験について、環境への対応のしかたについて、リスクについて、これからの時代に学ぶべきことについて、などであったり。どれも実に面白いことを言っているのだが、さまざまな内容の会話に一貫して流れているのは、「若い人・若い世代に伝えたいこと」であるとおもった。
例の「高速道路」の例え(ネットで調べるとたくさん出てくるので興味がある人はぜひ)からもわかるように、今の若い世代には情報がありすぎる、もっと野性味のようなものが必要だ、というのが二人の共通見解だ。やはり、情報を処理できるだけ、そつがないだけではだめなのだ。羽生さんという、情報が乏しかった時代に生まれてなお、若い世代に負けていない人がここにいることが、その証拠だ。それを、「野性」を強くもって、『素直にまっすぐ』(p203:白石さんがいまの子どもたちに一言だけ伝えたい言葉)、資金調達(この苦労の話がまた面白い)からなにからをこなし、海の冒険に突き進む白石さんの存在がさらに裏付けている。
さらに二人はまた、若いからこそできること、そのあとどういうやり方で年を重ねるといいかということ、などについても熱く語る。若い時はもっと無謀で破天荒であり、それが勢いを生んでいたという羽生さんは、年を重ねてリスクを上手く見積もれるようになったという。白石さんもまた、若い時に勢い良く失敗をしたからこそ、見えるものがあるという。年を重ねるにつれて、どう変化していくか。若さの勢いは誰にでもあるとすれば、人生トータルとしての差がつくのはそこなのだろう。若い時には気づかないものに気づけるか。そういう意味では、羽生さんの次の言葉はとても深いものを含んでいると思った。

リスクというのは、時間とうまく組み合わせて、分散させることもできますよね。だから、一回で大きなリスクを取るんじゃなくて、そのリスクは大きいんだけど、そのリスクをたとえば十年とか五年とかかけて、全部取り切るというようなやり方もあるはずなんです。それはある程度経験を積んで、時間が経過していく中でしか学んでいけないようなことかもしれない。特に若いときって、時間が無限にあると思ってるじゃないですか。いつまでも若くて、永遠にそれが続くんじゃないかという錯覚がある。いや、そうじゃないんだ、そうじゃなくて、年齢は確実に一年に一つずつ取っていくんだというようなことをきちんと認識して、それでリスクを分散させていくというようなことが、すごく大事なのかなという気がします。(p146)

彼の、年齢を重ねての強さの秘密は、ここにあるかもしれないと何冊か彼の本を読んではじめて思った一節だ。何かのスタイルにこだわる人は、このことがたぶんできない。スタイルにこだわるというのはある意味楽だ。逆にそれがリスクを生んでしまう。情報がない時代ならスタイルで突き通せたことも、情報が多い今の時代だと実力が伯仲したり、スタイルを読まれたり真似されたりして通らないことが多いだろう(いわゆる「高速道路の先の大渋滞」)。そんな時代に自分の想像しないところまで自分を持っていくには、何かにこだわらず、じっと状況を見つめながら、(自分も他人も)『裏切らないこと』(p203:羽生さんがいまの子どもたちに一言だけ伝えたい言葉)を心がけて、じっくりと事態を良くしていく(リスクをなくしていく)という方法が実は地味なようでいて唯一の手段なのではないか、などと思えてきた。

二人の言葉は、野性味にあふれていて、時代を先取りしている。彼らが話しているのは、「うまいこと生きる」、ことを推奨するようなアドバイスではない。もっと根源的に、現在の状況を見つめたうえで出てきた、生きるのが大変な若い世代への熱いエールだと受け取った。

「桐島、部活やめるってよ(DVD2枚組)」

面白いという話を目にしながら、日々の忙しさに追われ見ないでいる…そんな映画はいくらでもある。今回は、日ごろからそのセンスと考え方を尊敬している後輩に勧められ、「よしっ」と思い見てみた。

ある高校の、たった何日かの出来事と人間関係を描いただけの、ただそれだけのお話しなのだが…いや、これは面白い。

高校生の友だちどうしは、どういうものだったろうか。仲良くしているように見えて、お互い心の奥底では信頼していない、というのは、思いかえしてみれば、とてもよくある。寂しいだけだったかもしれないし、自分の自尊心(友だちがいないと寂しいと思われる)を満たしたいだけだったかもしれない。この映画では、そういう、本心ではなんか嫌だと思っているけど仲良く見える、みたいな人間関係がとても良く出てくる。

一方で、この映画のラストシーンでも少しは垣間見えるように、ほんとうは、遠い存在だと思っている人とも、理解し合えるもの、共感し合えるものがあるかもしれないのに、属する部活だとか人間関係によって、その可能性は限りなく閉ざされているのもまた事実だ。部活の補欠同士の感情だとか、実のところは、ひっそりとした共感関係みたいなものがあちこちで成立しているだろうけど、互いにそれを打ち明けられたりすることはほとんどない。みんな、恋愛だとか、自分の能力についてだとか、一生懸命な部活についてだとか、そういう、自分のことでせいいっぱいなのだ。同時に、本当はすこしどこか共感していても、自分の近くない関係の人と話したりするのは、どこか自分の評判を落とす感じがして、嫌だ、みたいなものもある(この映画での、映画部部長と「カスミ」の関係はまさにそうだ)。
つまり、近い人とはほんとうは分かり合えていなくて、遠い人とは分かり合っていることを確認する機会がない。

そんな、高校時代。すごーく、よくわかる。でもきっとそれは僕が主人公の映画部の部長のように蔑まれてきた文科系だったからだけではない。この映画は、終わってみれば、文科系の人も、部活の補欠だった人も、それなりに才能があって何でもできた人も、恋人とうまくいっていた人もいない人も、いろんな人が共感し得るようになっている。みんな同じように、分かり合えない虚ろさのようなものがあり、それでも熱中しているものがある。それを、誰かと理解し合えることは、高校時代には、ないかもしれないのだ。

そこから出て年齢を重ねたら話して分かり合えるかもしれない人と、これほどまでにすれ違い互いにどこか誤解し合ってしまうかなしさ。そして、どこかで通じ合えた時の嬉しさ。虚しさと希望といえばいいのか。よし、どこかで通じ合える可能性を信じて、自分のことに精一杯生きてやろうか、という気持ちになれるのは、幸せなことに、そういう未来があることを既に僕が知っているからだろう。
でも、そういうことがあることを信じられない、わからない人がいるのもよくわかる。登場人物の誰かに共感してみるだけだと、この映画の面白さは、だいぶ変わってくるだろうし。そういう意味でも、この映画は、全ての人に分かってもらえるようには作っていないし、だからこそメッセージは逆にすごく正直で、希望にあふれているなぁと感じられた。

竹内薫「科学嫌いが日本を滅ぼす」[rakuten:hmvjapan:11741057:image]

「サイエンス」「ネイチャー」と言えば科学者でなくても知っている二大科学誌である。本書は、多方面で活躍中のサイエンスライターが、この二大科学誌の創刊の歴史、少しずつ違うコンセプト、それらに載せてきた科学者たちのスキャンダルなどを語りつつ、日本の科学について考えていく。

ちょっと大きく出た印象のあるタイトルとは異なり、中身は極めて着実に調べた事実から論じていてためになる。文学にも造詣が深い教養人であった科学者たちがイギリスではじめたネイチャーと、全米科学振興協会(AAAS)と合流するまで軌道に乗らなかったアメリカ生まれのサイエンス。ジャーナリズムの精神が息づくネイチャーと、アメリカの科学政策にひと言申すサイエンス。こうした詳しくない人にもとても分かりやすい対照は、世界の科学がどういう動きをしているのかが見えやすくなるいい題材だ。
興味深く考えさせられたのは、世界の人に認められノーベル賞の対象になるには国際誌に載っている必要があるのだが、ではどういう雑誌に載るのが多いのか、という話である。新しい知見であるほど、理解されるのが難しい。そういう意味で、ネイチャー誌にも査読がなかった時代があり、現在の激烈な競争の末掲載が決まるようになった経緯がありながら、それでもこれまで、正式に査読を経ていない大発見が数多くあったという事実はなるほどと思わされた(p39)。また、日本人が世界の人に結果を知ってもらう際、海外の雑誌よりも敷居が低い「日本で発行され、日本人が編集している英文科学雑誌」の価値は今でも高い(『そういった「和製」の英文科学雑誌に発表された論文であっても、それが英語で読めるという一点において、世界に充分に通用し、ノーベル賞の受賞につながる(p153)』)という指摘も、盲点であるように思った。
実際、自分の属している学会の出している雑誌も、真の国際誌というよりは、日本人への敷居を低くして国際発信をしやすくしている側面が強い。それはそれで、とても価値があることなのだ。

いろいろ面白いことを考えさせてもらった本になった。

藤堂具紀「最新型ウイルスでがんを滅ぼす (文春新書)」

著者は東大医科学研究所の研究者。この本で焦点を当てられているのは「難治がん」と呼ばれる悪性脳腫瘍などのがんである。なかでもグリオーマと呼ばれる脳腫瘍の四分の一を占めるタイプの腫瘍は、『周囲の脳に浸み込むように広がっていき、正常な脳との境界がはっきりしないため、手術ですべて取り除くことが不可能(p47)』であり、現在の医療では100%治らないそうだ。

そんながんを治療する光明とも言えるのが、著者が研究しているウイルス療法である。多くの人が自然にもっている、口内炎、すなわち口唇ヘルペスなどを引き起こす「単純ヘルペスウイルスI型」(herpes simplex virus type I)と呼ばれる種類のウイルスを用いる。
(ちなみにこの本では、ヘルペスウイルスには主に3種類…上のI型と、性器ヘルペスの原因となるII型、水痘・帯状疱疹ウイルス、からなることも混乱しないように説明してくれている)
このウイルスの80以上の遺伝子のうち、たった3個の遺伝子を操作したものが「G47∆」であるというのだから驚きだ。勉強のために少し詳しめに調べたことも含めて書いておく。

1つは、アポトーシス抑制遺伝子γ34.5。これが働かないと正常細胞でアポトーシスが起こるようになり、ウイルスは増殖できなくなる。しかしがん細胞はそもそもアポトーシスを起こさないので、増えられる、というもので、この遺伝子の破壊は、がん細胞特異的な増殖に寄与する。
2つめは、ribonucleotide reducaseの大サブユニットであるICP6。これはウイルスの増殖に直接関与するが、がん細胞ではこの酵素は増殖に必要ないらしい。この遺伝子の破壊も、がん細胞特異的な増殖に寄与する。
ここまででも、十分がん治療には役に立つウイルスに変えられるようで、実際にアメリカでは臨床実験にも使われて成果をあげている。これをさらに強力に、今度はがんに対する効果を高めるために著者が直接研究に関わってきた遺伝子が、α47である。α47は感染細胞のMHC classIの発現抑制に関与し、これが破壊されたウイルスが感染した細胞は、免疫により攻撃を受けやすくなるというものらしい。
こういった概要を知るだけでも十分面白いし、ウイルスをやっているものとして勉強になるのだが、この本は開発までの道のりや苦労も存分に語られており、それがまたおもしろい。
例えば、既に臨床試験に入っていた前バージョンのがん治療ウイルスの研究を行っているうちに発見した、免疫を刺激する治療を組み合わせるとウイルス療法の効果が向上するという研究成果が、α47の発見に結びついたことなどは、とても示唆に富む。既に開発されたものをきちんと調べていくことで、わかることがある。そこから新しいものが生まれることがある。真に新しいものを発見するだけが大事な研究ではないのである。
同じ箇所では、α47の研究をしたいと思い立った著者が、「α47の効果を証明する方法がない」と主張するボスを一年がかりで納得させるまでの一部始終も語られており、これも研究者としてはとても興味深く読んだ。そのきっかけになったのは、少し分野の離れた論文報告。幅広く勉強しておくことの大事さがあらためて身にしみて感じられる。
他にも、特許を巡る面倒くささ、留学先から日本に帰ってくるにあたって生じた不都合など、どれも実感のこもった、書いておくべき証言の数々には興味を引かれた。

がんの治療に興味を持つ人にも勉強になるとは思うが、それよりも生命科学の研究者に是非読んでほしい一冊。

羽生善治「直感力 (PHP新書)」

何やらアマゾンのレビューにそんなことが書いてあった気がするが、これは、研究者にとっては、かなりすごい本である。

いろいろな言い方があると思うが、この本に結びつく形で書けば、自然科学の研究とは、自然界の法則を探る営みである。こういう結果が出たらきれいだな、自然界的にはこうなっているのではないかなと思って実験をしてみても、それが外れていることは日常茶飯事だ。そういう、最初はバラバラな結果でも、一つ一つの実験の条件を整えていくことで、毎回同じような結果が出るような、自然界の法則に沿った形に手懐けていく。その積み重ねで、だんだん大きな法則が明らかになっていく。その際に、どういう実験操作、どういう条件がうまく行かない(自然と合っていない、結果がばらつく)理由なのかを論理的に考えながら進めていく。
こういう過程は、確かに論理的なものなのだが、それだけとも言い切れないところがある。実験者が全く気づかないような条件が、自然と合わない結果をもたらす原因だったりする。なるべく試行錯誤を少なくするように、ピタリと自然に求められる条件を思いつける能力というのがある気がするが、これはある意味研究者の直感と言えると思う。

こういう、研究者に重要な直感は、この本で著者が述べる、将棋の勝利に必要な直感と極めてよく似ている。過去の知見とその研究がモノをいうこと、しかし試行錯誤と実戦経験がある程度必要なこと、もちろん論理性も大きな部分を占めること、などが特にそうだ。
前の本(「決断力」)で、羽生さんは「自分の得意な型に逃げずにオールラウンドでありたい」と書かれている。この本では違った表現で『直感を磨くには多様な価値観をもつこと』と書かれている。どちらも志向するところは似ている。
研究者でも、修業時代から用いてきた得意な型を何度も繰り返し使って結果を出していく人は多い。それは気持ち的にも、時間的にも余裕が出るし、既に知られている手法、分野であれば論文も出やすい。継続性を大事にして、少しずつ進歩していく。そういうやりかたが普通である。おそらく、それは将棋界でも同じで、ある程度得意な戦法を持ち、それにこだわっていく方が、直近の生き残り策としては正しいのだろう。
著者のやりかたには、第一人者の余裕もあるとは思うが、もっと長い視点がある。いろいろな戦法、自分の不得意なことへの挑戦、日常生活の豊かさ、相手との盤上のやりとり…さまざまなものをすべて自分の成長へ生かして、新たな世界を拓こうとしている。効率や利益を超えた、全人間的な成長を見据えて、長く最先端の場に立ち続けること。将棋の神様の知る真実に、同業の人たちと少しでも近づこうとすること。著者は、自分がそういう境地を目指していくことが、将棋界を活性化させる一番いい方法であることを、言葉には出さないがよくご存知なのだ。

もちろん、多くの人間には全人格的な成長を目指している暇などなかなかない。しかし果たして、新たな自然界の真実を解き明かしていくべき研究者は、それで良いのだろうか。直感力を磨いていくことは、生き残りのためだけでなく、新しい世界を拓いていくためになによりの力となる。羽生さんのありかたは、それを教えてくれているように思う。

羽生善治「決断力 (角川oneテーマ21)」

最近、ふたたび将棋に熱中しだした。しばらくの間離れていたのだが、久しぶりに触れてみると、いろいろと得るもの、考えるところがあっておもしろい。

棋界の第一人者、羽生さんのこの本は、2005年のもの。もちろん出ていることは知っていたが、当時は、立ち読みして、中身的にはシンプルだしそこまで面白いのかな、とあまり興味がなかった。ただ、将棋のおもしろさを久しぶりに感じだした今読むと、またこれが深いのである。

ビジネス書的な書き方に落とし込むとよく聞くような言葉になってしまう。しかし、十代のころから四十代の現在に至るまで、どんどん進化する最新戦法にまったく動じることなくトップに居続けている羽生さんが書くことは、少し意味がちがう。若さの勢いだけでこれだけトップに居続けられるわけではないのは、彼が十代の頃にものすごく強かった棋士も、同じ年数を経て必ずしも同じ立場を保っていない人が多数であることが証明している。
情報が過多になり、専門的知識の先端化がどんどん進むなかで、持続的に力を発揮し続けるためにはどうすればいか、という視点で読むと、同じ言葉でも全く良くあるビジネス書とは違った意味合いを持ってくる。

例えば、どういうスタンスで戦うかの話。最新戦法にも、全てについていくのではなく、戦法が自分に合っているか、深さがあるかなどの基準で絞り込んで研究したうえで(p75)、『自分の得意な形に逃げない(p137)』『敢えて熟知していない戦型に挑戦しようと思っている(p138)』と彼は言う。すなわち、

将棋では、自分がよく知った戦法ばかり同じようにくり返していると、三年、五年、さらに十年という長い目では、確実に今のポジションを落とすことになる。(p145-146)

というのである。
ビジネスでも、常に新しい技術を開発せねばならない、などと言われそうだが、実際に自分で考えて実践しながら三十年ポジションを落とさずやっている(そして周りはそれなりに落としている人もいる)彼の言葉には、自分で技術開発をやっているわけではない社長の言葉とは異なる説得力がある。

次々と変わっていく状況のなかで、新しいことをやり続けて、未開の領域を拓いていく。そういう分野にあって、同じこと、得意なことだけをやっていることは、すなわち衰退を意味する。研究に関わるものとして、これほど耳が痛い言葉もない。
一つ言えるのは、羽生さんのようにやらなくても、将棋棋士として生きていくことはできるということだ。同じように、新しいことをやりつづけなくても、大学で研究をして生きていくことはできる。そこで楽をせず、自分に負荷をかけて新しいことをやりつづけようとする動機はひとえに、その世界を理解してやろう、という好奇心なのだろう。

もう一つ、彼が将棋で戦う際に重要と思っていることで自分にあてはめてみたいと思ったのは、「最後に勝っていればいい」という大きな視点で勝負を見て、そのうえで余裕を持つことである。部分部分で勝っても最後に勝たねば意味がない。そういう意味で、「気力がしぼまない、一手の差のポジションをキープするのが大事(p109)」、「体力・根気がなくなると、結論のつかない状態に我慢できずに勝負を急いでしまう(p121)」という指摘や、「気持ちに余裕を持って「相手に手を渡す」ことの重要性(p38)」は、あることだけに集中して周りが見えなくなるとどうしても陥ってしまいがちなワナへの警鐘として常に気に留めたい。体力をしっかり維持して、根気良く気力を保って考え続け、ときには相手の(自然の、といってもいいかも)出方をしっかり見ること。それでしか、前進はないのだろうと思う。

最後に、勝ち負けではなく、こういうところが羽生さんのすごさだよなぁと思う部分を引用しておきたい。ただ勝てばいいのではない。その世界を理解しようとすること、それに少しでも寄与することが大事だという考えは、かっこいい。

むやみに趣向をこらすのが好きなわけではない。趣向には思想がなければならない。やたら目新しさで度肝を抜こうとするのではなく、その奇手が新たな地平を開拓する一歩でなければ、ただのこけ威しにすぎないだろう。(p65)

島朗「島研ノート 心の鍛え方」

島研ノート 心の鍛え方
将棋の本であるが、一切棋譜はない。タイトルどおり、何かを極めるためにどういった心の持ちようが必要なのかを一般の人々に語る、エッセイである。

著者は、将棋棋士である。一般的な認知度は高くないかもしれないが、ぼくが将棋にはまっていた小学生のころ、20代、ばりばりの若手として、初代竜王(タイトルの名前。20年ほど前にできた、比較的新しい棋戦である)にも輝いたトップ棋士である。バリっとしたブランドスーツを着こなし、都会派としてならした…というとイメージがわくだろうか。
そんな著者が、50代を迎え、力が落ちていく中で、どのように将棋を向かいあっているのか。当時と今でどう考え方が変わってきているのか。自らの昔の若さゆえの突っ走りっぷりを語り、若手に暖かい目を注ぐ著者は、今やがっしりとした中堅どころとして、将棋の世界の未来をしっかり見据えている。もちろん、著者がバリバリの20代だった頃にどのようなことを考えておられたかは、自分が若いこともあってまったく存じ上げなかった。彼が、ずっとトップに立てる実力があるわけではないと思っていたことなどは、もちろんわからない。しかし、著者よりずいぶん若輩の自分が読んでみても、そうした若い時代を経て一人の人間が成熟していき、次の世代にいかに自分が得てきたものを返すか、というように後進のことを深く考えるようになる過程を目の当たりにして、自分に置き換えてなるほど、と思ったり、同じようなことを最近考えるなぁ、などと納得するところが多かった。
著者はまた、タイトルにもある、本人の名前を付した「島研」という将棋の研究会の主宰者であった。これについては本書内でも何回も出てくるので詳細は省くが、誰でも知っている羽生善治3冠、そして森内俊之名人、佐藤康光という将棋界の3大ビックネームが10代でデビューするあたりから著者と4人ではじまり、この3人を生んだことでその名が広く知られることとなった。逆に言えば、彼らと一緒にいれば、自分の才能がどの程度のものか、に否応なく直面させられるはずで、そうした思い(「棋士としての何か決定的な部分をあきらめさせられた」(p193))も、この本には書いてある。将棋こそ全ての棋士が「生涯選手」だと思っていたが、それだけに突き詰めてできる人はこの世界でもそんなに多くないようだ、みんなどこかで自分の能力を絞って自分のできること(本とか普及とかメディアとか…将棋の才能にもいろいろある)をやっていくのだ、というのがよくわかる。どんな分野でも、そんなものなのかもしれない。
彼らと出会い、著者が何を考えたか。彼らにどのように接していたか。それについてがまとまった形で詳細に語られる本書は、1つの現代将棋史の重要な面を間違いなく文章として残している。

著者が書く通り、若いだけで勝てる時期がある。どんな業界でも同じだろうが、若者ならではの勢い、最新の知識、体力でそれなりの業績を上げることは、誰にでもできることではないにせよ、よくあることだ。それを、40代(まさに、羽生さんをはじめとする3人はこの年代だ)になってもなお、維持できるか、は難しい。そういうことへのヒントもこの本にはたくさんある。長く一線でいられるための考え方として、特に納得できて面白いと思った1つは、「理解できないこと・答えのでないことを考え続ける姿勢」が、効率的になにかをなすこととは対極にありながらも、長い目で見ると重要なのではないかと指摘されている部分だ(p152)。これは、引き続き書かれる『待つ力』にもつながってくる。すぐに答えが出ることばかりを求めるのではなく、脳に負荷をかけて、それが熟成されるのを待つ期間をもつこと。他人からの評価、自分の実力…ともに、すぐに良い方向に変わることは、なくはないにせよ、多くはない。自分の他人からの評価も長期的なものならば、根本的な実力と言うのも長期的なものである。じっくりと待つ姿勢をもちながら、長期的に自分を変えていく努力がいるだろうという主張は、羽生・森内・佐藤の「根本まで考える」長期的な視点を示すエピソードとともに、非常に深く心にのこる。

著者が語りかけているのは若い将棋棋士だけでなく、ますます世知辛い世で戦う若者全般だと感じられる。彼らに、若さだけで戦うのではなく、長期的なもののみかたをすることの重要性を説き、体力・礼儀などの大事さをさらっと述べ、同時に、生涯純粋に何かに打ち込むことの尊さを語る。「もって生まれた」人間を3人も、それほどまでに近くで見てしまった人にしか語れない重みを持つ言葉が、ここにある。